彼の口から思わず独り言が漏れたので、隣の中年男性がけげんそうな顔つきで彼の方をちらっと見たが、当事者の彼を含めて他の誰一人として、その独り言に気づいた者はいなかった。
彼の乗った電車は大学へと向かっていた。しかし、そんなことは彼にとってもうどうでもよかった。いつもの駅で降りて大学に行くのもよし。このまま電車に乗ってどこか遠くに行ってしまうのもよし。いずれにしても、今日の夕方の待ち合わせの時間にその場所に行ってさえすれば、それでよかった。
小川正志のその不思議な体験が始まったのは昨日だった。
彼は大学の帰りによく行くいつもの本屋に昨日の帰りも立ち寄った。彼は特に本を買うつもりなんてなかった。彼にとって本屋に立ち寄るのは習慣みたいなものだった。そして店内のお決まりのコースを進むあいだに、目についた本を何冊か手に取ってペラペラとめくるのだった。
彼はある本を手に取ろうとした時、自分のすぐ近くにいたパステルカラーのブラウスを着た長い髪の女性のことが気になった。つまり、その女性が美人なのかどうか顔を見て確かめてみたいと思ったのだ。しかし、彼女は何かの本に熱中している様子で、全く彼の方に顔を向けてはくれなかった。しかたなく彼は店を出ることにした。
彼が店の出入口を通り過ぎようとした瞬間、そこに置いてあった雑誌がふと彼の足を止めた。なぜなら、その雑誌には「恋愛占い大特集」と書かれた派手なピンクの文字がくっきりと浮かんでいたからである。
普段の彼であれば恐らくそのまま通り過ぎていたに違いない。そういう内容には特に興味がなかったからだ。しかし、出版社の意図どおり、彼はあまりの表紙の派手さにちょっぴり内味の方を確かめてみたくなった。その雑誌を開くとそれは、生年月日、血液型、氏名の画数などの条件を組み合わせて占う複雑なものだった。ようやく彼は自分のことが書いてあるページを見つけることができた。
なになに、11月からは恋愛運がいいらしい。特に、お気に入りの宝石類を身につけていると最高に恋愛運が高められるらしい。そう雑誌には書いてあった。
実はこれまで、彼の人生は恋愛とは全く縁のない悲惨なものだった。だから、恋愛運がどうだこうだ言われてみたところで、彼にはほとんどピンとこなかった。もちろんこの時も、彼が気にも留めずにそのまま店を出たことは言うまでもない。
正志の家は閑静な住宅街にあった。広めの庭とそこに植えてある木々が彼の父親の自慢だった。父親は一見まじめそうなサラリーマンで、母親は専業主婦だった。それと彼には高校生の妹がいた。
彼はこれまでの自分の人生は可もなく不可もなくだと思っていた。例えば、勉強は中の上だった。スポーツも中の上、そしてルックスも中の上だった。ただ、恋愛に関してだけは下の下で、そのことを彼は唯一の汚点だと自覚していた。