「見えるんじゃないかなあ。男女二人で歩いてるだけでも普通はそう思うだろ?」
「そうですね。今日だけ小川さんは私の恋人」
「えっ?」
「さて、今からどうします? もう帰りますか?」
「さあ、どうしようかな」
「それとも・・・・・」
「それとも?」
「それとも・・・・・」
「えっ、なに?」
「私の家まで来ますか?」
と靖子は言ってから少しうつむいた。正志は彼女がそう言う少し前に、彼女が何を言いたいのか見当がついていた。それなのに、彼女の口からそう言わせてしまったことを少し後悔した。
結局、正志は靖子の家に向かった。彼にはそんなおいしそうな誘いを断ることはできなかった。彼はいつもの冷静さを欠いていた。一昨日その道を歩いた時とは違って、景色を楽しむ余裕もなかった。二人は目的地である靖子の部屋をただ目指して黙々と歩いた。もちろん彼の本来の気持ちとしては、二人の関係はこれからも昨日までどおりでいたいと思っていた。気の許せる仲のいい先輩と後輩のままでいたい。だからこそ彼は、二人のあいだに何かが起きることは覚悟したものの、決して期待したくはなかった。
家に着いてジュースを飲みながら、どちらからともなくしゃべり出した。会話はとてもぎこちなかった。そのことがさらにお互いの緊張を高めた。しばらくするとその会話もとぎれた。そして、気まずい沈黙が続いた。
正志はふと立ち上がり、意味もなく本棚の前に進んだ。そして、靖子の様子をうかがうためにちらっと後ろを見た。いつのまにか靖子は正志のすぐ後ろに立っていた。そして、正志をじっと見つめていた。正志は振り返った。そして、覚悟を決めて靖子の瞳を見つめ返した。もうお互いに視線をほどくことはできなかった。少しづつ吸い寄せられていく気さえした。
息を止めていたのか靖子が息をふうっと吐き出し、少しうつむいた。そして、顔を上げるとゆっくりと目を閉じた。正志の唇は靖子の唇に限りなく近づいていった。まさにその時であった。ムードと静寂をぶちこわすかのように玄関のチャイムが響いた。
目くばせで無視しようと相談すると二人は息を殺した。もう帰ったかなと思って、正志が声を出そうとした時、再びチャイムが鳴った。前よりもっと大きな音がした。まるで、そこにいるのはわかってるのだから早く出てきなさい、と言っているように聞こえた。靖子は半ば反射的に玄関の方へ駆けて行った。
訪問者は宗教の勧誘をしている女性だった。正志は息をひそめて彼女達の会話が終わるのを待っているしかなかった。用件はほんの数分で済み、その女性は話しを聞いてくれた礼をていねいに述べて帰って行った。
靖子が戻って来たので、正志が話しを切り出そうとした。ちょうどその時、今度は電話の呼び出し音がけたたましく嗚った。靖子は受話器を取った。相手は彼女の実家の母親だった。正志は引き続き息をひそめることを余儀なくされて、かなり苦痛だった。