ここで俺が何かしゃべったらどうなるのだろう。彼女の母親はまさか今この部屋に男がいるとは思っていないだろう。そのことを母親が知ったらどう思うだろう。正志はふとそんなことを考えた。すると、何か後ろめたい気持ちで一杯になってきた。
靖子は電話を手際よく切り抜けた。正志はキスを中断させられた悔しさも少しはあったが、それ以上に今となっては中断させられてほっとした気持ちの方が強くなっていた。お互いにさっきような気分はなくなっていた。それに、また誰かに邪魔されそうな予感もあった。とにかく正志は、今日のところは帰ることにした。
彼がマンションの階段を降りて行くと、踊り場のところでさっきの勧誘の人だと思われる女性とすれ違った。靖子と比較すると、その女性は数段美人だった。もしこんな美女に勧誘されたら自分は断ることができるだろうか。彼は階段の途中でそう思った。
同じ日の晩の10時前に、靖子から正志に電話があった。
「小川さん、お元気ですか?」
「今日会ったばかりじゃないか」
「・・・・・」
「どうしたの?」
「小川さん」
「えっ、どうしたの?」
「私、小川さんのことあきらめます」
「・・・・・」
「私、小川さんのことが好きでした。でも、いつまで待っていても、小川さんは私の方を向いてくれなかった」
「そんなことないよ。いつもかわいいと思ってた」
「いえ、いいんです。もう、あきらめましたから」
「・・・・・」
「小川さんは美貴ちゃんのことが好きなんでしょ?」
「えっ、そんなこと・・・・・」
「わかってたからいいんです。がんばってくださいね」
「どうかしたの? 急に」
「実は私、前から川野さんにつきあってほしいって言われてたんです」
「えっ、川野さんに?」
「そう。私も川野さんのことがわりと好きだったし、思い切っておつきあいしてみようかなあって思ってるんです」
「もし君が本当にそう思っているのなら、俺には何も言うことはないよ」
「そう、わかったわ。今日のデートのことは小川さんと私の最初で最後の思い出。それじゃあ、さようなら」