正志はがくぜんとした。こんなに美人で、こんなに人気があって、しかも恋人までいるらしい美貴がこれまでキスの経験がなかったとは信じられなかった。しかし、彼女の言ったとおりキスの経験が本当になかったとしよう。ならば、彼女がなぜ初めてのキスをあれほど簡単に許したのか、その理由を彼女の口から聞きたいと思った。いずれにしても、正志にはますます美貴のことが不思議に思えてきてならなかった。
正志は今しばらく布団の中にいた。美貴は食事のしたくでもしているのか何か音を立てていた。彼は今頃になってようやく眠くなってきた。夢心地ながらも、彼女と誰かが親しくしているところを見ればきっと自分は嫉妬するだろうと思った。だから、少なくとも彼女は誰のものにもなってほしくないと思った。そして、もしも自分のものにできればどんなにかいいだろうと思った。そんな思いが夢の中でどんどん膨らんでいった。
二人で朝食を取っていた時、正志はどうも妙な感じがしてならなかった。目の前にいる美貴は普段どおりのあまり愛想のよくない美貴だったからだ。つまり、明け方にキスをした美貴とは別人のように態度が変わっていたのだ。
「信じられない。本当に泊まっていくなんて。小川さんなんか最低」
美貴は相変わらず怒っていた。正志はしかたなく一言だけ謝ったが、その後はなるべく知らん顔をした。彼はなにがなんだかよくわからなくなっていた。気まずい空気が部屋じゅうを覆っていた。
9時になった。今から大学に行くから出掛ける、と美貴が言うので、正志も駅まで一緒に行くことにした。彼はどっと疲れていたので、今日は授業をさぼって家に帰る、と告げて彼女とは駅で別れた。
電車に揺られながら、正志の頭の中はより一層混乱していた。
「チャチャのあの夢以来、夢と現実の区別がつきにくくなってしまった。もしかすれば明け方のできごとも夢だったのだろうか?」
そう言えば、今朝の美貴の態度は明け方に何かあったという様子ではなかった。確かに今朝はウトウトした状態がずっと続いていたので、彼には夢と現実の区別がつきにくくなっていたのも事実だ。
「でも、もし夢でないとすれば、彼女は一体どういうつもりなんだろう?」
だが、正志には美貴の心を読むことは簡単ではなかった。そして彼は、今になって後悔し始めていた。恋人でもない女性と、ましてや後輩とあんなことをしたと思うと、情けない気分で一杯だった。だから彼は、ただの夢として忘れてしまった方が利口かもしれないと思った。
彼がため息をつきながら、ちょうどそんなことを考えていた時、たまたまポケットにつっこんだ右手の指先があの水晶玉に微かに触れた。彼はポケットの中の水晶玉を三本の指先でつまむようにして握り締めてみた。熱さが伝わってくるような気がした。
「チャチャ」
彼はそうつぶやいた。そして、どうしても明け方の真相を確かめたいという気持ちを抑えることができなくなってきた。車内のアナウンスが彼の降りる駅名を告げた頃、彼の気持ちは固まっていた。彼はその事実を確認するために、また彼女の家に泊りに行くことを心に決めていた。
10時に彼が家に着くと、ちょうど母親が庭で洗濯物を干していた。