「それなら、そんな態度を取るなよ。本気になったらどうするんだ」
彼は先輩として、そして男として、そう忠告してやるつもりだった。彼としても、今が本気で好きにならずに引き返せる限界点だと思った。
もしも彼女が
「本気になってもいいです」
と言えば、彼も安心して限界点から一歩踏み出せばいいと思った。
彼としては、美貴の答えがどちらであってもよかった。ただ、美貴のあのうっとりとした美しい目は、きっと恋する目に違いないと信じたかった。
恋する目、それはこれまで正志にはほとんど向けられたことがなかった。せいぜい靖子の時くらいしか経験がなかった。それ以外で見たことがあるとすれば、テレビドラマの女優が演じてる恋する目くらいだった。だから、彼には全然その確信はなかった。
その時ふと彼は、高校の時に実物にお目にかかった経験があったことを思い出した。それは学校からの帰り道、彼を含めて男女数人で喫茶店に立ち寄った時のことだった。雑談で盛り上がっている最中、彼は隣にいた野村淳がやけにおとなしいのが気になって、ふと野村の方を見た。野村はまばたき一つせず、ある一点を見つめているようだった。正志はさらに気になって野村の視線をたどっていった。すると、野村の真向かいに座っていた浅田智恵子の丸い瞳にぶつかった。浅田も野村を見つめ返していた。浅田の目はうっとりとしながらも、ほんの少しだけ切なさを含んでいるように見えた。正志はドキッとして思わず目をそらしたが、これが恋する目か、と胸の奥でつぶやいていた。
それから数年経った今、正志は美貴の目にあの時の浅田の目を見たような気がした。だからこそ、美貴の目は恋する目だと信じたかった。だが、いずれにしても正志はすでにもう、二人の恋の行方を美貴の返事に託してしまっていた。しばらく沈黙が続いた後、とうとう美貴の口元が動き始めた。
「本気になってください」
「えっ?」
「だから本気になってください」
彼女ははっきりとそう言った。正志は自分の思っていた言葉より、さらにもう一歩踏み込んだ積極的な言葉が返ってきたので、動揺して次の言葉が浮かばなかった。美貴がさらに続けた。
「小川さんのことが好きになったから」
正志は肩透かしをくらって体が砕け散るような感覚に見舞われた。心臓がどんどん高鳴り、呼吸がだんだん苦しくなってきた。体じゅうが熱くなったかと思うと、一瞬のうちに熱が抜けていき冷たくなる。そして、またすぐに熱くなる。
「本当?」
喜びのあまり正志の声は裏返っていた。
「本当です。なぜだかわからないのですが、好きになってしまいました」
美貴の声が正志の耳元でこだまして、そこからなかなか離れなかった。これもチャチャのおかげだと正志は心の中で感謝した。彼はこの時初めて、美貴はどことなくチャチャに似ていると思った。