自分は小川で、大野ではないけれど、その声は確かに自分に対して発せられたものであることは、正志自身も疑いようがなかった。彼は少し困ったような顔で振り返った。するとそこには、30歳を少し過ぎたくらいと思われる女性が立っていて、正志の顔をじっと見ていた。かなりの美人だと正志は瞬間的に思った。女優さんをやっていてもおかしくないような、そんな美さを漂わせていた。髪の毛につけたこげ茶色のヘアバンドがとてもよく似合っていた。その時正志はとっさにこう答えた。
「あなたがそう言うのなら、僕は今日から大野です」
「はあ?」
「だから、僕が大野です」
「そう、だいぶん待ったでしょ? ごめんなさい」
「えっ、いえ」
「えっと、沢井由香のお知り合いで東洋商事にお勤めの大野さんですよねえ?」
その女性は本当に正志のことを大野という人と間違えているようだった。そのことに気づいた正志はあせった。と言うのも、彼は早とちりをしていたからだ。声を掛ける時の手段として、適当に思いついた大野という名前をその女性が口にしただけだと思い込んでいたのだ。てっきりそうだと思ったから、正志も開き直って適当に相手の調子に合わせようとしたに過ぎなかったのだ。正志はしかたなく演技を続けることにした。
「はい。沢井さんとは1年前からのおつきあいです。東洋商事では経理関係の仕事をしています」
「えっ、確か仕事は営業でしたよねえ?」
「えっ、いや、この前変わったばっかりなんです」
「そうですか。でも、由香とつきあい始めたのは3年前でしたよねえ?」
「あっ、そうそう。もう3年にもなるかなあ」
「それで、この前別れたんでしょ?」
「えっ、別れた? そうそう。残念だったのですが、しかたなかったのです」
正志はしどろもどろになってきて、本当のことを言うべきかどうすべきか迷っていた。その女性はだんだん目元に笑みを浮かべながら、さらに先を続けた。
「で、由香のことは今でも好きなんですか?」
正志は続けざるをえなくなってきた。
「もちろん嫌いじゃありません。でもあんなことになってしまって、しかたなかったのです」
「あんなこと?」
「そうです。他に好きな女性ができてしまったこと」
「ふふふ。嘘ばっかり。あなた、本当はどなたですか?」
「えっ、実は・・・・・小川といいます。大野さんとは縁もゆかりもありません。ごめんなさい。さっきからずっと適当なことを言い続けてて。どうしてもあなたと話しがしたくなってついつい」
「まあ、それはお互いさまね」
「本当にごめんなさい」
そう言って正志がその女性の前から立ち去ろうとした時、彼女が呼び止めた。
「小川さん。小川さんはさっき大野さんとは縁もゆかりもないって言ったけど、小川さんは大野さんの元恋人の姉の知り合いだから、大野さんとは全くの他人でもないわけだし、もしよかったら大野さんを一緒に探してくれませんか?」