「えっ?」
「女の人と歩いてたよねえ」
「そうだったかなあ」
「歩いてたよ。手なんかつないじゃって」
「手なんかつないでないぞ」
「あっ、やっぱり、お兄ちゃんだったんだ」
「おい。お兄ちゃんをからかってるのか?」
「別にそんなことないよ。ところで、あの人お兄ちゃんの彼女?」
「ばか。そんなんじゃない。あの人が困ってたから助けてあげただけだ」
「ふうん。それで、雨も降ってないのに相合傘をするわけ?」
「雨降ってたじゃないか」
「降ってなかったもん」
「降ってた」
「降ってない」
「そんなことどうでもいいから、あっちに行ってろ」
「はいはい。お兄ちゃんにも春がやってきたのかな。よかった。よかった」
和代はそう言って部屋を出て行った。家族の者に目撃されたのは最大の不覚だったと正志は思った。和代と違って彼は、そういう話題をこれまで家でしたこともなかったし、そういうのは照れくさくてどうも苦手だった。
その晩の午後9時前、正志はどうも落ち着かず、電話の前を行ったり来たりうろうろしていた。それを見た母親が不思議そうな顔をしたが、彼は適当にごまかした。
時間は9時を過ぎたが、電話は鳴らなかった。ちぇっ、やっぱり脈なしか。そりゃそうだよなあ。こちらから電話してみようかな。いや、そんな空しいことだけは止めとこう。彼はそんなことを考えながら、もう少しだけ電話を待つことにした。
電話は15分以上も過ぎてから鳴った。
「はい。小川ですが」
「守山といいますが」
「ああ。守山さん。待ってたよ。もう電話くれないかと思って」
「だって、小川さんが9時にしろって言うから。あっ、そうそう。9時にしようと思ったらお母さんが使ってて、終わるまでずっと待ってたんですよ」
「そう。それはどうもありがとう」
正志はいざ話しを始めようとすると、わざわざ電話でするような話題があまりないことに気がついた。それに、さっきから母親が自分の後ろを行ったり来たり忙しくしているのが気になっていた。結局、明日の午後5時に駅の出入口で会う約束だけして、正志は電話を切った。今晩の彼にとって、電話で話しをする内容よりも、電話が掛かってきた事実に大きな意味があった。